イタリアふれあい待ち歩き


イタリア観光のための知識 ― キリスト教とは



イタリアの聖人の話から始まり、かなり、話題がそれてきました。キリスト教の事を調べれば調べるほど、キリスト教の悪口ばかりになってきました。確かに、キリスト教の歴史を調べると、日本人には理解できないことがいっぱいあります。それでも、キリスト教を信ずる人たちは世界中にいっぱい(イスラム教もいっぱいいますが)います。何故なのでしょう。

悪口ばかり言っていないで、そのことを考えてみる必要があると思います。それが宗教というもので信者を洗脳しているからだと考えても良いのですが、キリスト教と新興宗教とはその規模が違います。キリスト教徒全員が洗脳されているとはとても思えません。では、世界中の人々をひきつけるのは何なのでしょうか。最後にそのことを追求してみたいと思います。本当の話、書いている本人も何が言いたかったのかが混乱してきましたので、最後にまとめてみればその答えは出てくるのではないかと期待しています。

聖人の選び方

そのひとつは、聖人とは何かということです。要するに、個々には理解できる聖人もいますが、12使途、聖母マリアや大天使までが、人間から選ばれた聖人と一緒に列聖されている現実も見ると、全体としては、聖人とは何かとの基準がわからないという結論になってしまいました。それもこれも、すべてが教会の矛盾に満ちた考え方を押し通そうとする究極の利己主義から生まれたものだからです。

少なくともこれからは、この人なら聖人になってもおかしくないような人だけにして欲しいですね。例えば、現在の多くの人の尊敬に値するマザーテレサです。その人が、実際に、神から(聖母マリアや他の聖人も含め)の告知を受けたかどうかではなく、その人が実際に行った貢献を評価したもので列聖して欲しいと思います。また、今では、教会指導者の男尊女卑も影を潜めていますが、男も女も関係なく選んでほしいのです。でも、ノーベル賞にしても政治的に選ばれている現実を考えると、人間が選ぶ限り、果てしなく難しいのだと思います。

キリスト教の元凶

次に、聖人の選び方からでもわかってきたキリスト教の元凶です。これまでに記したように、キリスト教は、その矛盾に満ちた説明をこじつけるために、更なる矛盾を生み、今や、誰も説明をつけるのが難しい状況になってしまっています。それだけなら、まだ良いのですが、本来のキリスト教の教えからも遠く離れてしまっています。これは、キリスト教が国家の拡大(即ち、キリスト教を布教して、キリスト教国家を拡大すること)に利用され続けた上に、教会の指導者達がキリストの教えよりもこの国家拡大の方針と自己の究極の利己主義を堅持することに傾倒していたために起きてしまったのです。

元来、人々を幸せにするための宗教であったにもかかわらず、異端や異教との争いを繰り返していることが、このような矛盾を創ってしまった最大の原因であることは明らかです。キリスト教だけでなくどんな宗教でも、それらのもともとの思想はすべての人を幸せにすることにありましたが、それを都合の良いように解釈して、都合の良いように利用した国家元首や教会の指導者が元凶となっているのです。もちろん、イスラム教も同様で、原理主義とは云いながらも、本来のイスラム教の教えからかなり離れてしまっています。こんな事を言えるのは、キリスト教でもイスラム教でもない日本人だからかもしれません。

西洋人のコモンセンス

もともと、古代の宗教はすべて同じですが、ユダヤ教もイスラム教も、民族の宗教であり、ユダヤ民族やアラブ民族を守るための唯一神であり宗教だったのです。ですから、他の民族とその唯一神・宗教の存在は自分達の民族の存亡に関わることだったので、他の民族とその宗教は排除するしかなかったのです。その歴史的な事実が、西洋人には染み付いているのかもしれません。

キリスト教は西洋人の宗教であり、それを守るためには他の宗教は消滅させなくてはいけないと考えている人がまだ多くいるのだと思います。ユダヤ教の原点でもあり、他の民族との争いを多く取り入れている旧約聖書が、キリスト教にも採用されているのも、西洋人にそのような考えを持たせる一つの原因だと思います。

でも、キリスト教は、今や、世界の宗教です。西洋人だけでなく世界の人々を守らなくてはいけないのです。まだまだ、西洋文化はそのことに気がついていないようです。西洋人には、彼らがキリスト教の歴史から学んだコモンセンスが世界のコモンセンスであるとしか考えられない人が多いようです。いくら、キリスト教に改宗してもそんな歴史は知らない人が世界中にはいっぱいいます。

もともと、キリスト教に改宗するのはキリストの教えに感銘を受けたためで、西洋のキリスト教の歴史に感銘を受けたからではありません。そのコモンセンスを世界中、それもイスラム教の人たちまで、押し付けようとするために争いを招くことになるのです。世界を救うのはキリストの教えかもしれませんが、西洋人でもキリスト教でもないと思います。

日本人とキリスト教

世界を救うのは西洋人でもキリスト教でもないと書いてしまいました。それでは、誰なのでしょうか。ひょっとすると日本人かもしれません。日本人がキリスト教に改宗する人が少ない最大の原因はこれらのキリスト教の持つ残虐性と究極の利己主義です。異端を徹底的に痛めつけて消滅させたり、他の宗教の神を悪魔にしたてあげたり、ここで上げたのはほんの一部で、こんなことは過去のキリスト教の歴史の中には数え切れないくらいあります。

“それらは、本来のキリストの教えと違っている上に、キリスト教が国家に利用されたか結果だ”と言い訳をしても、実際に、その時分の教皇や教会指導者がその片棒を担いでいたことは事実です。従って、そのキリスト教の争いの歴史が、本来のキリストの教えだと勘違いしているキリスト教徒がいても仕方のないことなのです。その証拠に、今でも異教徒との争いを続けています。だから、今や、キリストの教えなどそっちのけで、キリスト教は、イスラム教と同様に非常に危険な宗教に思われているのです。そう考えると、日本人はとてもキリスト教に改宗などできるはずがありません。

キリスト教の何が人々をひきつけるのか

ここまで悪口を書いて、ここからがキリスト教の解析です。100%のキリスト教徒はキリスト(神)又は聖母マリア又は聖人の誰かを信じています。だから、キリスト教徒なのです。

考えてみると、世界中の人が何らかの神様を信じているのではないでしょうか。日本人でも神様は信じている人が多いと思います。神様は、キリストではなくても、世界に一人で、世界中のすべての人の幸せを思っているのではないでしょうか。そう考えている人は少なくないと思います。聖母マリア信仰の原点はそこにもあるのだと思います。たまたま、キリスト教の国の中にあったので、地母神信仰から聖母マリア信仰になっただけです。

日本では、仏教の国なので観音様信仰になっています。もし、世界に一人の神様を考えていたら、キリスト教の中のキリストのポジションの論争(三位一体)も全く意味のないものになってしまいます。要するに、キリスト=聖霊=聖母マリア=地母神=観音様=仏陀=アラーの神=ユダヤ教の神=世界に一人の全能の神様、となるのです。

前述しているキリスト教の初期(紀元1世紀)に発生したグノーシス主義の考え方が、正にこれに基づいているのです。グノーシス主義では、“神は両性であり、肉体を持っていない。キリストも身体の幻をまとっていたに過ぎない。また、神は人々の心の中にいて、信じることでその人の精神的な支柱となる”と説明しています。正に、その通りと感じるのは私だけではないと思います。

但し、これも、後になって、自分達を守ることしか考えていない教会指導者に異端として扱われています。でも、この初期の時代の考え方が、本来のキリストの教えに近いのではないかと考えるのはごく自然のことだと思います。もし、このグノーシス主義を現在のキリスト教が受け継いでいたならば、キリスト教徒とイスラム教徒の争いはなくなっていたでしょう。その証拠に、初期イスラム教はキリスト教を兄弟宗教としてリスペクトしていたのです。残念ながら、当時のキリスト教指導者はそれを無視したのです。

キリストの教えはここに

イタリアに住んでキリスト教関連の建物や芸術を見るときに、キリスト教の歴史を知っておくことは、その建物や芸術作品の意味や背景を知っておくのに必要なことですが、その神秘性を感じるためには、その争いの歴史は返って逆効果となる可能性があります。そんな時は、神様は世界に一人であると考えて、その神様が、たまたまイタリアではキリストや聖母マリアであると考えると、それらを素直に理解できて、そこからその神秘性が伝わってくるようになります。

だから、キリスト教徒ではない日本人も感銘を受けるのだと思います。それが本来のキリストの教えでもあり、世界中の宗教の根本だからです。イタリアではそれがたまたまキリスト教なのです。イタリアだけでなく世界中のキリスト教徒にとっても同じです。神様を信じたいと思う気持ちとすぐそばにあった教会がキリスト教徒をここまで広げたのだと思います。

残念ながら、絵画の中には、国家権力者によって描かされたような、残虐なものや教会指導者の利己主義的なものもありますが、それはそれでついでに見ていれば良いと思います(感銘も受けません)。そんな絵画には日本人だけでなくキリスト教徒も同じように感銘は受けていないと思います。そんなものは見なくても、キリストの本来の教えを守りながら築き上げたキリスト教文化はたくさんあります。それらをたくさん見て、そのすばらしさを感じてください。それらはやはり美しく神秘的で、今でも人々を幸せに導く文化となっていると思います。また、そのことを信じて、イタリアでこれからもキリスト教文化を探訪することをやめることはないと思います。キリストの教えは、キリスト教徒の中だけでなく、その神秘的な建物や絵画の中にも生きているのです。


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