イタリアふれあい待ち歩き |
イタリア観光のための知識 ― キリスト教とは
イタリアの聖人の話から始まり、かなり、話題がそれてきました。キリスト教の事を調べれば調べるほど、キリスト教の悪口ばかりになってきました。確かに、キリスト教の歴史を調べると、日本人には理解できないことがいっぱいあります。それでも、キリスト教を信ずる人たちは世界中にいっぱい(イスラム教もいっぱいいますが)います。何故なのでしょう。 そのひとつは、聖人とは何かということです。要するに、個々には理解できる聖人もいますが、12使途、聖母マリアや大天使までが、人間から選ばれた聖人と一緒に列聖されている現実も見ると、全体としては、聖人とは何かとの基準がわからないという結論になってしまいました。それもこれも、すべてが教会の矛盾に満ちた考え方を押し通そうとする究極の利己主義から生まれたものだからです。 次に、聖人の選び方からでもわかってきたキリスト教の元凶です。これまでに記したように、キリスト教は、その矛盾に満ちた説明をこじつけるために、更なる矛盾を生み、今や、誰も説明をつけるのが難しい状況になってしまっています。それだけなら、まだ良いのですが、本来のキリスト教の教えからも遠く離れてしまっています。これは、キリスト教が国家の拡大(即ち、キリスト教を布教して、キリスト教国家を拡大すること)に利用され続けた上に、教会の指導者達がキリストの教えよりもこの国家拡大の方針と自己の究極の利己主義を堅持することに傾倒していたために起きてしまったのです。 元来、人々を幸せにするための宗教であったにもかかわらず、異端や異教との争いを繰り返していることが、このような矛盾を創ってしまった最大の原因であることは明らかです。キリスト教だけでなくどんな宗教でも、それらのもともとの思想はすべての人を幸せにすることにありましたが、それを都合の良いように解釈して、都合の良いように利用した国家元首や教会の指導者が元凶となっているのです。もちろん、イスラム教も同様で、原理主義とは云いながらも、本来のイスラム教の教えからかなり離れてしまっています。こんな事を言えるのは、キリスト教でもイスラム教でもない日本人だからかもしれません。 もともと、古代の宗教はすべて同じですが、ユダヤ教もイスラム教も、民族の宗教であり、ユダヤ民族やアラブ民族を守るための唯一神であり宗教だったのです。ですから、他の民族とその唯一神・宗教の存在は自分達の民族の存亡に関わることだったので、他の民族とその宗教は排除するしかなかったのです。その歴史的な事実が、西洋人には染み付いているのかもしれません。 でも、キリスト教は、今や、世界の宗教です。西洋人だけでなく世界の人々を守らなくてはいけないのです。まだまだ、西洋文化はそのことに気がついていないようです。西洋人には、彼らがキリスト教の歴史から学んだコモンセンスが世界のコモンセンスであるとしか考えられない人が多いようです。いくら、キリスト教に改宗してもそんな歴史は知らない人が世界中にはいっぱいいます。 世界を救うのは西洋人でもキリスト教でもないと書いてしまいました。それでは、誰なのでしょうか。ひょっとすると日本人かもしれません。日本人がキリスト教に改宗する人が少ない最大の原因はこれらのキリスト教の持つ残虐性と究極の利己主義です。異端を徹底的に痛めつけて消滅させたり、他の宗教の神を悪魔にしたてあげたり、ここで上げたのはほんの一部で、こんなことは過去のキリスト教の歴史の中には数え切れないくらいあります。 ここまで悪口を書いて、ここからがキリスト教の解析です。100%のキリスト教徒はキリスト(神)又は聖母マリア又は聖人の誰かを信じています。だから、キリスト教徒なのです。 イタリアに住んでキリスト教関連の建物や芸術を見るときに、キリスト教の歴史を知っておくことは、その建物や芸術作品の意味や背景を知っておくのに必要なことですが、その神秘性を感じるためには、その争いの歴史は返って逆効果となる可能性があります。そんな時は、神様は世界に一人であると考えて、その神様が、たまたまイタリアではキリストや聖母マリアであると考えると、それらを素直に理解できて、そこからその神秘性が伝わってくるようになります。 残念ながら、絵画の中には、国家権力者によって描かされたような、残虐なものや教会指導者の利己主義的なものもありますが、それはそれでついでに見ていれば良いと思います(感銘も受けません)。そんな絵画には日本人だけでなくキリスト教徒も同じように感銘は受けていないと思います。そんなものは見なくても、キリストの本来の教えを守りながら築き上げたキリスト教文化はたくさんあります。それらをたくさん見て、そのすばらしさを感じてください。それらはやはり美しく神秘的で、今でも人々を幸せに導く文化となっていると思います。また、そのことを信じて、イタリアでこれからもキリスト教文化を探訪することをやめることはないと思います。キリストの教えは、キリスト教徒の中だけでなく、その神秘的な建物や絵画の中にも生きているのです。 |