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イタリア観光のための知識 ― ダ・ヴィンチ コードの仮説



カトリック教会においては、原罪を免れている神であるはずのキリストは、人間のように結婚も子孫を残すことも出来ないのですが、ダヴィンチコードでは、三位一体の根本を否定するような仮説が出てきます。マグダラのマリアはキリストの伴侶であり、映画の主人公と行動をともにしている女性はキリストとマグダラのマリアの子孫なのです。

この仮説の源を追求すると、使途ヨハネの秘密に触れることになり、最終的には、ヨハネ=マグダラのマリアが見えてきます。ダヴィンチコードはカトリックにとってかなり危険な書物であることがはっきりとわかりました。

外典である福音書

これらは正典に多少遅れて出来たものですので、十分に昔からの言い伝えと言えるものです。外典には、トマス、フィリポ、ペドロの福音書等があります。マグダラのマリアの福音書もあります。フィリポの福音書に、マグダラのマリアがキリストの連れ(伴侶)であったことが記述されています。また、キリストが使途達よりもマグダラのマリアを愛していたことも記述されています。マグダラのマリアの福音書にも、マグダラのマリアがキリストにとって特別な関係にあったことが理解できるような記述があります。これらの記述がダヴィンチコードの仮説の源です。

注目したいのはフィリポの福音書にある記述で、“聖母マリアとその姉妹(聖アンナの異父娘のマリア・サロメ)及びキリストの”連れ“であるマグダラのマリアは、3人ともマリアという名前で、いつも主と一緒に歩いていた”と書いてあることです。即ち、マグダラのマリアと聖母マリアは、かなり親しい間柄で、聖母マリアは、キリストの伴侶としてマグダラのマリアを認めていたことになります。

マグダラのマリアは、もちろん正典にも記述があり、キリストの墓がもぬけの殻であったことを発見した女性の一人はマグダラのマリアです。また、復活したキリストとはじめて会った人がマグダラのマリアです。

使途ヨハネとマグダラのマリア

正典の中で最後に作成されたヨハネの福音書(ヨハネ自身ではなくヨハネ派の他の人が書いたと言われている)には、復活後の最後の章に“キリストの愛しておられた弟子”が登場します。この人が誰であるかは明記されていませんが、ヨハネではないかと言われています。この福音書がヨハネ派の人が書いた物であるのでヨハネだと信じることが自然です。

従って、もっとも愛されていたヨハネは、最後の晩餐ではいつもキリストの隣に位置しています。又は、キリストの左胸に寄り添っている(ヨハネの福音書には愛するものはキリストに寄り添っていたと記述してある)ものもあります。それに加えて、ヨハネは、ダヴィンチコードでも指摘していましたが、誰もがブロンドの長い髪で髭も無く女性のような顔立ちで描かれています。いえ、どう見ても女性です。ヨハネを若い男性で描いている絵画もどこかにあるようですが、ダヴィンチを含むほとんどの画家は、ヨハネの福音書を読んで、ヨハネこそがもっとも愛されている人であり、しかもキリストに寄り添っている女性であると理解していたのだと思います。また、キリストの死後、聖母マリアと暮らしたと言われています。一説では、ヨハネはマグダラのマリアと一緒に聖母マリアと暮らしていたとも言われています。

ここまで来ると、誰もが同じ想像をしてしまうと思いますが、ヨハネとマグダラのマリアは同一人物であったような気がしてきます。そう考えたほうがすっきりしますし、面白いと思います。上記だけでも十分なのですが、更に、これを裏づける証拠は、12使途の中でヨハネに対してだけは、キリストは何も責任のある役目を押し付けていないことです。ヨハネが女性であれば当然責任のあるつらい役目は与えないでしょう。責任のある役目のないマグダラのマリア(ヨハネ)は、キリストの死後、キリストが期待していた通りに、キリストの生前から親しい、しかも息子の妻として、聖母マリアの面倒を見ることは自然の成り行きに思えます。

聖書の中で、ヨハネは、ペドロと一緒に出てくるか、或いはマグダラのマリアと一緒に出てくる機会が多いようです。マグダラのマリアの福音書では、ペドロはマグダラのマリアに、“主が他の女性よりもあなたを愛していることを知っている”と言っていますので、ペドロはキリストとマグダラのマリアの関係を知っている人です。ですから、ペドロの存在があっても、聖書の中のヨハネとマグダラのマリアを同一人物と考えることに問題は生じないと思います。

ますます、ダヴィンチコードには信じられる要素がいっぱいあることがわかりました。キリストの子孫が今でもいるなんて、ローマ法王は怒るでしょうが、ロマンがあります。

天使と悪魔

今までの話と全く関係ありませんが、ダヴィンチコードの次の作品の天使と悪魔に絡んで天子と悪魔の話をします。聖人の中にはどういうわけか旧約聖書に出てくる天使が含まれています。ミハエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルの所謂4大天使と呼ばれる大天使です。この4大天使は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で共通しています。

大天使ミハエルは、エルサレムの守護天使であり、先に述べたジャンヌダルクにささやいた天使です。ガブリエルは受胎告知で有名です。ラファエルはあまり知られていませんが癒しの天使とされています。ウリエルはエデンの園を守る天使の一人でノアに洪水を告げた天使です。これらの4大天使のほかにも、旧約聖書には神の僕としての天使は数多くいます。この4大天使はもちろん人間ではありませんが、キリスト教では聖人として扱われています。従って、聖ミハエル、聖ガブリエル、聖ラファエル、聖ウリエルとなります。イタリアにも聖ミケーレ教会がいくつかありますが、これらは聖ミハエルに捧げられた教会です。

ついでに悪魔についても話をしますと、もともと悪魔には3種類があります。@神の僕の天使が何らかの理由(人間に知恵を与えた等)で天国から放り出されて堕天使となりついには地獄まで行って悪魔となったもの、A神の僕で人間を試すために創られた龍等の格好をした悪魔(サタン)、B異国の古代文明の宗教の神々がキリスト教では悪魔となったもの、の3種類です。

なぜ、聖人の話から悪魔になったのかを説明しますと、キリスト教はその布教のために、これらの悪魔を利用している事実があるからです。即ち、この世には悪魔がいて、それに唆された人間は悪事を働き地獄に落ちるのですが、それを救うのが神であることを証明するために、実際に悪魔が人間を唆す事象を挙げて、聖人がそれから救うことを見せるのです。要するに、聖人と悪魔は、キリスト教布教のために、善悪を代表するコンビなのです。

神の僕である堕天使とサタン(上記の@とA)なら、聖人とコンビにして布教に利用する事はまだ理解は出来ます。しかし、異国の古代文明の神々を悪魔とした(上記のB)のはどうしてなのでしょう。これらの悪魔はキリスト教(ユダヤ教)が創りあげた非常にインテンショナルな悪魔です。

ソロモンの72柱の悪魔がその代表ですが、この頃はまだ、ユダヤ教では悪魔でしたが、まだ現役であった異教の神として、ある程度の敬意は払っていたようです。ユダヤ教が敢えて悪魔とした理由は、単にイスラエル国と異教の国との力関係や対抗意識だと思います。それが、映画に出てくる悪魔祓いに出てくる悪魔がこの種の悪魔になった原因は、どうもキリスト教にあったようです。

即ち、聖アンブロージョが支持したアタナシウス派が、堕天使やサタンとこれらの神々を同じものと定義してしまったことに始まったのです。アタナシウス派の理解は、異教の国の神々はもともと神の僕の天使であったが、神の教えに反発して堕天使となり悪魔となったと説明したのです。

でも、この異教の国の神々はキリスト教よりずっと以前から人々によって崇拝されていた神々です。特に、中東の古代文明の神々はユダヤ教よりも古く、ギルガメッシュ叙事詩のように旧約聖書の土台となった文明の神々も含まれています。

いくら、全能の神とはいえ、やりすぎのような気がします。キリスト教の布教のためとはいえ、これではこれらの異教の神々も怒ります。映画のエクソシストの悪魔になったのもその怒りのせいかもしれません。キリスト教の戦争の歴史も、異教に対するこのあたりの考え方から来るのかもしれません。


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