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イタリア観光のための知識 ― 三位一体と聖母マリア



聖人の話の続きとして三位一体及び聖人の中でも別格である聖母マリアに関して書きたいと思います。カトリックではキリストと並んで聖母マリアが前面に押し出されています。キリスト以上かもしれません。このことを吟味してみたくなりました。


 

三位一体

アリウス派と三位一体

話が少しだけずれてしまいますが、聖アンブロージョによって異端とされたアリウス派に関して、このアリウス派の考え方が聖母マリアに対する崇拝に大いに関係があり、又、ダヴィンチコードの基にもなっていますので、ちょっと追記します。

前章にあるようにアリウス派は三位一体を認めていませんでした。即ち、父は創造主であり唯一神であるとの考えです。キリストを預言者の一人として扱っているユダヤ教やイスラム教に近い考え方です。従って、子であるキリストは神である父の被造物であり神ではないことになります。要するに、キリストは人ですので、マグダラのマリアと結婚もできるし子孫も残せるわけです。これでは、ダヴィンチコードの通りになってしまいます。

後述しますが、アリウス派とともに異端とされて外典となっている2-3世紀に書かれた福音書の中(特にフィリポの福音書)には、このことを証明するような記述があります。とにかく、キリスト教は自分達に都合の悪いものはすべて異端とするか無視してしまいます。自分達が常に正義であり、そこに学問や科学の良識は存在しません。要するに、究極の利己主義です。だから、どうしても説明できない矛盾だらけになり、その矛盾を突いたダヴィンチコードや天使と悪魔のような本が出てくるのです。

これに対して、聖アンブロージョが支持したアタナシウス派は、子は父(神)から生まれて聖霊と並んで神の位格の一つであるとの三位一体論をとっています。この理論は、アダムとイヴの原罪から生まれています。即ち、アダムとイヴがりんごを食べたのは人類が悪の誘惑に負けた最初に犯した罪(原罪)であり、このために、人類はエデンの園から生も死もある世界に追放されて神のご加護なしには生きられなくなったとの考えです(早い話が、だからキリスト教に入りなさいと布教しているのです)。

その流れの中に聖母マリアの処女受胎があります。聖母マリアは、人間でありながらこの原罪の汚れを受けることなく受胎してキリストを生んだのです。従って、原罪の汚れなく生まれたキリストは死ぬことはありません。磔にあって死んでも3日後に復活して、天国に昇天(死んだのではありません)したのです。同時に、キリストはこの原罪に汚されてはいけないのです。即ち、1人の女性だけを愛したり、その人と結婚するなんてことはとんでもないことです。キリストはすべての人を平等に愛する神であり聖霊でなくてはいけないのです。

三位一体の理論はそのことを証明するものですから、アタナシウス派としては、三位一体を否定するアリウス派は異端として抹殺しなくてはいけなくなったのです。話がまた反れてしまいますが、キリスト教の洗礼はこの過去の原罪を洗い流すための物です。洗礼後の罪はどうなるのでしょう。どうも、別の方法(一般的には懺悔)で免れることができるようです。これも後から付け加えたものです。

ダヴィンチコードに影響されたわけではありませんが、現在のキリスト教に影響されていない人間としては、アリウス派のほうが現実的であるような気がします。三位一体はその後もこの説明のつかない理論を正当化するために大変な苦労をしています。異端の数も増えますし、聖人が多くなったのもこの影響があると思います。唯一神なら奇跡だって起こせるのですから、すべて神の思し召しと説明すればいいわけで聖霊を持ち込む必要もなくなるので、もっと苦労が減るような気がします。

それに加えて、アリウス派に対する異端扱いが、融通の利かない究極の利己主義をつらぬくために、その後度々出てくるキリスト教の異端との争いの出発点であり、キリスト教の異端との戦争の歴史の始まりです。国家間の宗教戦争、十字軍(エルサレムの奪回だけでなく東方正教会であるイスタンブールまで異端として攻撃した)もその流れの中にありますし、しいては、ナチスのユダヤ人虐殺、今日のパレスチナ問題、イスラム教(これも異端の一つです)の原理主義者との抗争にもつながっています。

何故、聖母マリア信仰が多いのか

聖母マリアも聖人の一人に上げられています。イタリアに来て感じたことの一つに、聖母マリアの教会が非常に多いことがあります。ミラノのドゥオモの先端には聖母マリアの金の像(マドンニーナ)があります。それだけではなく、名前にサンタ・マリア及びマドンナと名がつく教会が数え切れないほどあります。キリストよりも聖母マリア信仰のほうが多いのではないかと思ってしまうほどです。絵画や彫刻にしても、キリストの十字架よりも、キリストを抱いた聖母マリアのほうがずっと多いと思います。

もちろん、キリストを生んだ聖母マリアを信仰することは理解できますが、これほど多いとは思いませんでした。そもそも男尊女卑の元祖でもあるようなキリスト教の考え方において、聖母マリア信仰がこれほどまでに広まったことは非常に不思議です。何故、これほどまでに聖母マリア信仰が広まったのかを吟味してみたいと思います。

キリスト教は常に国家と共にあります。逆にいえば、国を拡大するために、ローマ時代からキリスト教は利用されていたのです。キリスト教を広めてその地を支配することがヨーロッパの国々の戦法であり、異端を容赦なく痛めつけて消滅させることは、即ち、国の拡大となっていたのです。しかし、聖母マリア信仰だけは異端と決め付けるわけにはいかないほどの大きなものだったのです。要するに、異端として消滅させることが不可能なほど強い信仰だったのだと思います。従って、頭の固い教会指導者も、キリスト教の布教(即ち、国家の拡大)を考えると、異端とするより、ある程度妥協してキリスト教の信者を増やし国家拡大の方向で考えたのだと思います。

次に、教会自らが押し付けた矛盾に満ちた三位一体論を正当化するために、原罪を免れているキリストを生んだ聖母マリアもまた無原罪でなくてはいけないとの理論が出てきます。処女受胎は無原罪のマリアだから始めて実現したのです。即ち、無原罪の聖母マリアは三位一体論に必要不可欠なものになってしまったことも、聖母マリア信仰を止めることが出来なかった理由の一つと考えられます。

イタリアを含むヨーロッパでは、5世紀頃に、キリスト教の公会議で、聖母マリアを“神の母”(聖母マリア自身が原罪を免れていることの証でもある)と呼ばれることに決めました。この決定は、もともとあった潜在的な聖母マリア信仰と結びつき、急激に聖母マリアを拝する教会が増えたことに繋がりました。この公会議で決定された“神の母”の意味は、間違いなく聖母マリアが“原罪の汚れを受けることなく受胎してキリストを生んだ“ことから来ていますので、即ち、聖母マリアは三位一体には欠かせない存在である証明となったのです。

特にカトリックでは、処女受胎は”無原罪の御宿り“とも呼ばれています。この意味は、聖母マリアは受胎の時に原罪を免れているため、原罪を免れた人として生と死を超越(エデンの園にいる状態)していて、老いもしないことになります(これが“神の母“と呼ばれる所以です)。もちろん、こんな事は聖書には一言も出てきませんので、三位一体を正当化するために教会が捏造したものです。

教会は、更にこの話をもっともらしくするために、これも後から付け加えられたものですが、母親であるアンナから生まれた聖母マリアは、教会で天使によって育てられたことになっています。又、このように聖母マリアは処女受胎以降、不老長寿ですから、聖母マリアの絵画や彫刻は、いつも若いマリアになっています。ピエタでも、33歳のキリストの母であるはずなのに、キリストを生んだときと同じ若さで画かれています。

また、キリストと同様に死んでも生き返り、(生きた肉体のまま)天国に召し上げられて(聖母マリア被昇天)いますので、この世に度々出現することになるのです(聖母マリアが出現した話は世界中にあります)。それだけではなく、こんどは聖母マリアの無原罪を説明するために、母親であるアンナまで聖人の称号を与えることになってしまっています。

もう、詭弁が詭弁を呼ぶとはこのようなことをいうのではないでしょうか。もう、誰も理論的な説明は出来ませんので、力で押し通すしかなくなってしまいます。もともと男尊女卑の教会が、ここまでしなくてはいけないのはすべて三位一体を正当化するためなのです。このような教会の考え方は、本来のキリストの教えを遠く離れていますので、キリストも天国で歯軋りをしていることと思います。

このような成り行きから、カトリック、東方正教会とも聖母マリアを第一の聖人とし神への執り成しを求める祈りを捧げられます。ですから、他の聖人に比べると別格になります。しかも、聖母マリアに死はありませんから、今でも天国で歳をとらずに神とともに生きていることになっています。アダムとイヴ以来、原罪を免れて人間のままの体で天国に召し上げられ、今でも天国で神のそばで生きている人間は聖母マリアだけです。同じ人間なら、話もわかりやすいし、頼みごとも気安くたのむことができます。それが、ロザリオの祈りで代表される聖母マリア信仰です。

でも、上記のような考えは如何にも物語であり、教会のインテンショナルな決定です。聖母マリアが今でも天国で若いままで生きていることは、よほど教会に洗脳されない限りキリスト教徒でも100%信じることは出来ないと思います。このことに関して教会は、いつも苦しい説明を強いられているわけです。正に、教会にとっては、本来のキリストの教えよりも、キリスト教の信者を増やし国家を拡大するほうが重要だったと考えるしかありません。

この流れの中にあるのが、勢力を増してきた宗教改革の対抗策として、教会が聖母マリア信仰を利用したことです。本来の聖書に忠実にもどること(聖母マリア信仰は聖書にはない)を主張した宗教改革がキリスト教国家の屋台骨を崩しかねない状況となり、それを建て直すために、宗教改革では重要視されていないが大勢の人が信仰している聖母マリアを前面に出すことで、プロテスタントへの改宗を防いだのです。ここにも、なりふり構わない教会の方針を見ることが出来ます。

話が大分それてしまったので、上記のような教会の究極の利己主義は忘れて、聖母マリア信仰をもっと素直に考えることにしましょう。単純に聖母マリアがキリストの母親であることと永遠の処女であることが聖母マリア信仰の一番の理由だと思います。どこの世界でもどの宗教でも母親は偉大なのです。キリストだって聖母マリアがいなければ生まれなかったわけですから、聖母マリアの絵画や彫刻がキリストの十字架よりも多くても仕方がないのだと思います。それに加えて、処女受胎の考えは永遠の処女である清純さを表していますので、世の男性の永遠の憧れとなります。これは、ケルト人の大地母神信仰やギリシャのアフロジーテ(ヴィーナス)等の女神信仰からの流れを受けているのです。キリスト教の布教(国の拡大)のためには、教会もこの大きな流れを異端とすることができなかったのです。


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