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イタリア観光のための知識 ― 聖母マリアの起源



キリスト教が各地に影響を及ぼす以前のヨーロッパの各地では、ケルト人の大地母神信仰を初めとする地域の昔からの神々とギリシャ・ローマの神々と結びついて出来た地母神を崇拝していました。この地母神信仰が聖母マリア信仰の起源であることは、たやすく想像できます。キリスト教が入ってきても、昔ながらの地母神信仰は簡単に捨てられるものではありません。潜在的に人々の中に残っていたことは想像に難くありません。

聖母マリア信仰の起源

フランスに200体、イタリアを含むその他のヨーロッパ各地でも約250体の黒い聖母マリア像が存在し、今でも信仰と巡礼の対照となっています。これは、特にケルト人たちの地域信仰として根付いていた地母神信仰と深い関係があります。ガリアの地(今のフランスを中心とする地域)がキリスト教化されるのは4世紀です。それ以前、この地はケルト人が住んでいて彼らは土着信仰とも言われるドルイド教を信仰していました。

ドルイド教とは、霊魂崇拝の原始信仰で、聖なるものは自然の中に宿るとされていました。注目すべきなのは、黒いマリア像が存在している場所は古くからドルイド教のこれら自然崇拝が行われていた場所と一致していることです。自然に霊魂を求めるケルト人のドルイド教では、人里離れた近づき難いこういった場所を聖地としていたのです。また、
黒いマリア像の安置されていた場所や発見された場所が、自然の岩のくぼみや洞窟であることも、ローマ時代以前には神殿を持たない自然崇拝のケルト人を起源と看做す一つの理由になっています。

 

その後、キリスト教が現れ、大地母神が聖母マリアに結びついて、聖母マリア信仰となったと考えるのが、最も一般的な説となっています。即ち、古くから人々は大地のなかから生き物・特に穀物が絶えることなく生まれ、且つ消えていくことをみて、この命あるものを生み出し且つ飲み込んでいく大地の力と女性のもつ子供を産み育てる神秘的な力とを同じものとして崇めてきました。その具象化が地母神と総称される女神たちです。

それは、生と死という人生最大の境界を乗り越えようとするとき、無意識のうちに母なるものを求める人間の本能に連なるものといえます。これまで知られている代表的な地母神としては、ギリシャのアルテミス・ローマのキュベレ・エジプトのイシスなどが挙げられます。これら母なるものへの信仰を根底とする地母神信仰はキリスト教時代になって邪教として抑圧されますが、その根底にある母なるものへの希求心が聖母マリア信仰へと流れ込み、黒いマリアとして再生したということができると思います。5世紀頃の聖母マリア信仰の高まりは、ここから始まったと考えて良いと思います。

黒いマリア像の起源

処女で懐妊した聖母マリアには、純潔の「白」が似合います。逆に黒というのは、キリスト教にとって、死、闇、病気という不吉な色ということで、マリアに黒が使われているのには、何かキリスト教ではない異教的な雰囲気がします。しかし、実際、キリスト教において不吉とされている黒色は、キリスト教以前の異教文化においては意外とそうではなかったのです。ガリア地方での教会の建設やキリスト教布教(国家の拡大)において、これらの土着信仰との衝突を避ける必要がありましたので、妥協案として聖母マリアを黒く塗ることによって母なる大地の女神などの土着信仰と結びつけていく必要があったと考えられます。

これらの黒いマリアが人為的に黒く彩色されたのか、燈明のススや自然の汚れなどで黒ずんだのかはわかりません。肝心のカトリック教会もこのことについては何も言っていません。というより、カトリックでは今でも普通のマリア像が何らかの理由で黒ずんだという立場をとっており、黒いということに特段の意味を認めていないといったほうが良いでしょう。即ち、異教の女神を認めたといわれたくないために無視しているのです。自分に都合の悪いことに対して口を瞑る、いかにも教会指導者らしい態度です。

 

ローマ時代にはフェニキア人やエジプト人がヨーロッパに入り込み、中世でもヴェネツィアのサン・マルコ広場の鐘を衝いているムーア人がいますので、白人だけの世界ではなかったのは確かですが、それでも、ほとんどの人は白人です。そこで、もう一つの黒いマリアの起源として考えられるのが、流浪の民であるジプシーです。ジプシーはロマ(Roma)と呼ばれていて、その名の通りローマ帝国を理想郷と考えて、その地を捜し求めて放浪の旅をしている民族とも言われています。

ロマの起源は、インドの北部にあり民族的にはインド系です。従って、ロマの信仰はヒンズー教でしたが、カースト制にも入れない身分の低いロマにとってのヒンズー教はもっとも原始的なものでケルト人と同様に土着的な地母神信仰に近いものでした。しかし、彼らは、ヨーロッパで生活する上での処世術として容易にキリスト教を受け入れていますので、その結果、彼らの地母神(ヒンズーの神)と聖母マリアの結びつきが自然に生じて、黒いヒンズー教の神に倣い黒いマリア像に繋がったと見ることが出来ます。南フランスにある黒いマリア像には、今でもロマの巡礼地(サント・マリー・ド・ラ・メール)があるそうです。

 

ロマの崇拝の対象である黒いマリア像は、キリストの処刑に立ち会った三人のマリア(マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、マリア・サロメ)の一人であるマグダラのマリアの召使である小麦色肌のサラと言われています。従って、黒いマリア像ではなく“黒いサラ”となります。三人のマリアとサラ及びその一行は、ユダヤ人に迫害され、パレスチナから櫓(ろ)も帆もない小舟に乗せられて地中海を漂泊して奇跡的に南フランスのマルセイユに流れ着きました。マグダラのマリアは、ここから更に旅を続けてサント・ボームまで行きましたが、小ヤコブとヨセの母マリアとマリア・サロメ、そして彼女たちに従うサラはこの地に残り、布教をした後に没したという古い伝承があります。カトリックでは、この二人のマリアは直ぐに聖女マリアとしてその墓の上に教会(サント・マリー・ド・ラ・メール)を建てたのですが、ロマの守護神である“黒いサラ”に対してはなかなか認めなかったようです。現在ではやっと、この“黒いサラ”も地下礼拝堂に奉られているそうです。

 

黒いマリア像が、聖母マリアではなくマグダラのマリアであるとの伝承も根強く残っています。上記のように、マグダラのマリアの一行が南フランスに漂着後に、マグダラのマリアはサント・ボームの洞窟で隠士生活を送り、そこで一生を終えたと言い伝えられています。この洞窟での隠士生活のくだりは、ケルト人やロマの地母神信仰と結びつけるのに十分と考えられます。また、テンプル騎士団は、実は異端であり、この黒いマリア像(マグダラのマリア)の崇拝教団であったとの伝承も残っています。これも、ダヴィンチ・コードで取り上げられている興味の尽きない伝承の一つです。

 

黒いマリア像の由来として、もともと聖母マリアは小麦色の肌をしていたとの伝承もあるとも聞いています。これは、オローパの“黒いマドンナ”を作ったといわれている聖ルカの伝承といわれています。もし、これが本当であるなら、もともと、聖母マリアが小麦色の肌であったのを、処女受胎の清潔な印象を強調するために、後日、教会が白いマリア像に変えたのではないかとも考えられます。この考えのほうが、すっきりとするような気がします。


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