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イタリア観光のための知識 ― キリスト教における女性の位置づけ 



キリスト教は男尊女卑の元祖であると、何度か述べていますが、意外と思われる人もいると思います。現在の世界で、男尊女卑を語るときに、まずイスラム教が頭に浮かびます。イスラム教では女性は軽視され、女性としての容貌を表に出せないばかりでなく、教育もまともに受けられない状態であることは、誰もが知っています。でも、それは表面的なもので、イスラム教では母親を大事にし、誰もが母親を尊敬もしているのです。とは言っても、イスラム教の女性の中で今の状況に不満をもっている人はいっぱいいると思います。

では、キリスト教はどうなのでしょう。キリスト教の国では、女性の地位は向上して、ほとんど男性と変わらすに自由が保障されています。でも、それは現在の事で、過去のキリスト教の歴史の中ではそうではなかったのです。もともと、キリスト教もイスラム教も、ユダヤ教に端を発しています。従って、女性に対する考え方も同じところから出来上がっているのです。

男尊女卑

キリスト教の神は男であると考えていることが、男尊女卑の原点です。本当に男なのでしょうか。カトリックでは、全能の神がアダムを創造したときに、神の姿と同じに造ったことになっています。アダムは男ですから、神は当然男になるというのがカトリックの考え方なのです。イヴはアダムのあばら骨から生まれたので、女性は、男のあばら骨程度のものとなってしまいます。これが教会の根本思想です。そのあばら骨から生まれたイヴがアダムを唆して禁断の実を食べさせたのですから、女性は信用できない罪深いものとなってしまいました。

実際に、アダムは聖人として列聖されていますが、イヴは聖人(聖女)とはなっていません。イヴがいなければ子供は出来なくて人類は存続できなかったにもかかわらずこの仕打ちです。ここから始まり、女性に対する数々の仕打ちがその後ずっと続いていきます。女性が、現在のように、人間として認められて自由を謳歌できるようになったのは、ほんのつい最近の出来事なのです。それも、アメリカから始まった自由主義が、教会の力が及ばないほど強くなってしまったからで、決して教会指導者が悔い改めたわけではありません。

キリスト教では、人間のあらゆる欲望は、アダムが禁断の実を食べた(原罪)時から始まります。従って、神を信仰する上で一番大事なことは禁欲であり、禁欲する事によって神に近づくことができるのです。しかし、女性は、男性が禁欲しようとするのに対して、いつもそれを阻止しようとするものと考えられました。きれいな格好や肌をあらわにして男を誘惑するのはいつも女性の方からであると考えられていたのです。早く言えば女性は教会の最大の敵だったのです。

そういえば、ダヴィンチ・コードでも同じようなことを言っていました。女性の中で聖人(聖女)に選ばれた人もいますが、聖母マリアを含めたキリストの関係者以外の聖女は圧倒的に数が少ないのですが、聖女達のほとんどが修道女又は男性のように禁欲して、自分を捨ててひたすらキリスト、平和、慈善活動に奉仕してきたような人ばかりです。きれいな女性らしい女性は絶対に聖人には選ばれていません。

又、これらの聖女の中で教会博士(全部で33人)に選ばれているのはわずかに3人だけです。その理由は、女性でありながら、司教のように神の教えを伝えたり、男性以上に学問に秀でていて知識が豊富な人は、教会指導者にとことん痛めつけられてしまうからなのです。中には、キリスト教徒によってリンチにあって殺された女性(エジプトの哲学者ヒュパティアが有名です)もいます。

中世の魔女狩りは、このことを最も証明する一例です。魔女狩りで最初に血祭りをあげられたのは、薬草の知識を持ち、お産の助けをする老女でした。教会にとって、病気を治療すること、子供を授けることは、神様しか出来ないのです。従って、女性の分際で、そのようなことができるのは魔女だからだと決め付けられてしまったのです。本当に恐ろしい考え方です。もちろん、男の医師はなんのお咎めもありません。

神様は男なのか?
もちろん、キリスト教の一派の中には、女性を大事にする一派もありましたが、現在のマジョリティであるカトリック、プロテスタントが最も男尊女卑がひどかったのです。初期のキリスト教(紀元1世紀)の異端であったグノーシス主義では、全能の神は両性であると考えられていました。即ち、人間の父であり、母でもあるのです。従って、グノーシス主義では男尊女卑はありませんでした。

グノーシス主義を異端としたのは、もちろん、その時代のカトリック教会指導者たちです。それが正しいかどうかではなく、自分達の考えに従わない宗派はすべて異端の対象になったのです。グノーシス主義のような初期のキリスト教の考え方は、例え、異端と決め付けられたにせよ、キリストの時代により近い時代に生まれたのですから、その考え方もキリストの教えにより近いと考えて、もっとリスペクトすべきだと思います。

もちろんのこと、キリスト本人は男尊女卑ではありませんでした。キリストの周囲には、聖母マリア、マグダラのマリアを初めとしてたくさんの女性がいましたが、聖書の中にも女性を軽視するような言葉は全くありません。すべて、後世の教会指導者によって作り上げられたものなのです。

仏教でも、釈迦は男でしたが、観音様の存在も許していますので、神は両性と考えられます。グノーシス主義の考えたように、それが本来の宗教なのではないでしょうか。前述した古代の自然崇拝では地母神崇拝も同じです。もちろん多神教ですから男性神もいますから、男性と女性の両方を神として崇拝しています。自然崇拝では、自然界で生ある創造物は母親から生まれることの神秘性から地母神崇拝となったのです。自然崇拝のように、生あるものを創造するという事実は奇跡であり、神秘であると誰もが考えていたことは納得できます。

しかし、信じられないことに、キリスト教では、この生なるものの創造、即ち女性の出産を不浄なものとして捉えているのです。女性が出産したら、男の子を生んだ場合は40日、女の子なら80日間教会に入ることは禁じられます。この謹慎期間に出産の不浄をきれいに洗い流さなくてはいけないのです。これも、教会による作り話ですが、聖母マリアでさえもキリストの出産後40日の謹慎期間があったことになっています。このように、キリスト教が女性を蔑視するのは、自然の方向に逆らっていると考えるのが普通だと思います。

このようにキリスト教は、昔から男尊女卑の姿勢を崩すことはなかったのですが、聖母マリア信仰だけは認めることになってしまったのです。自然崇拝の民族をキリスト教徒に取り込むためには認めざるを得なかったのでしょう。カトリックの偉い教会指導者達にとっては屈辱であったと思います。キリスト教が力を持ってしても、これだけは阻止できなかったのです。彼らにとって、信者獲得の為の苦渋の決断だったことが容易に想像できます。実際に聖母マリア信仰が許されなかったら、キリスト教がここまで世界中に広まることはなかったと思います。



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