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イタリアの観光情報 ― ミラノの古い教会



ミラノの教会に関して書きます。ミラノには、数え切れないほどの教会があり、その一つ一つに特徴があり、みごたえがあります。ですから、どの教会の話をすれば良いか迷いますが、とりあえず、古い教会の話をしたいと思います。観光情報はミラノの観光ガイドを参照してください。

1.ドゥオモ

紀元4世紀のローマ時代に、城壁内に建立された大聖堂の位置に今のドゥオモが建てられています。このローマ時代の大聖堂は、後に2つに別れて、サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂と聖女テクラにささげられサンタ・テクラ聖堂となっています。ドゥオモの入口の地下48メートルはレンガ積みの空洞になっていて見学する事が出来ます。そこには、今でもサンタ・テクラ聖堂の一部の遺跡と聖ジョバンニ・アッレ・フォンティ洗礼堂の遺跡を見ることが出来ます。聖ジョバンニ・アッレ・フォンティ洗礼堂はサンタ・テクラ聖堂の脇に建てられた礼拝堂で聖アンプロージョが建立し、聖アゴスティーノの洗礼が行われたと言われています。

ドゥオモは、これらの2つの聖堂と礼拝堂を包み込むように建てられ、現在、聖母マリアを掲げているミラノの大聖堂となって、ミラノの誇りとなっています。このドゥオモの建設の歴史は詳細に記録されドゥオモ博物館に保存されていて、その後の教会建設のガイドにもなっているそうです。


*1)聖女テクラは聖パウロの弟子であった。紀元一世紀に、キリスト教に改宗したため父親の差し向けた兵に追われ、シリアのマアルーラ(ダマスカスの北東56Km)の山に逃げ込み、彼女が祈ると山が2つに割れて開き、彼女はそこを通って逃げることが出来た(マアルーラの町の名はこの時の山の割れ目又は入り口に由来している)と言い伝えられている聖人(聖女)の一人である。この地域は、今でも住民のほとんどがキリスト教徒であり、聖テクラ修道院が今も現存している。但し、男尊女卑のキリスト教にあって、その当時、聖母マリア以外の女性の聖人を拝することに、教会指導者の批判が出て、聖女テクラを拝することを取りやめたそうです。今でも、イタリアの聖人の聖女カテリーナを筆頭に女性の聖人が数多くありますが、聖家族(聖母マリアや聖アンナ)以外の女性の聖人えお拝する教会はそれほど多くはありません。

 

2.聖アンブロージョの命によって建立した教会

4世紀に、ミラノの守護聖人である聖アンブロージョは城壁外に4つのバシリカを建立しています。“殉教者のバシリカ”(現サンタンブロージョ聖堂、殉教者であるサン・ジェルヴァジオとサン・プロタジオの墓の上に建立)、“聖処女のバシリカ”(現サンシンプリチャード聖堂)、“12使途のバシリカ”(現サンナザーロ聖堂、使途の遺品も残る)と今は無き“救世主のバシリカ”です。それぞれの教会の位置関係は概ね図1の通りです。これらの教会は、西方古キリスト教に準ずるもので、聖人崇拝及び聖遺物崇敬儀礼に基づいたものと言われています。ローマ時代の大聖堂であったドゥオモを含む現存する聖堂は、全て、ロマネスク期又はゴシック期(ドゥオモ)に改築改修が行われていて、残念ながらローマ時代の面影を見るのは難しい状況です。但し、各教会には、一部にローマ時代に建てられた構造物や遺物が残っていますので、それを訪ねるのも楽しみの一つになると思います。

 

1を見てわかるように、これらの教会はキリスト教徒のお墓のそばに建てられています。この後に建てられた教会もお墓のそばが多く、また、これらの教会には聖人の亡骸が安置されていますので、もともと教会はお墓だったのでは無いかと思います。サンテウストロジョ教会の地下にはローマ時代のお墓の遺跡が残っていて見学することが出来ます。

 

1B. Virginumがサンシンプリチャード教会、B. Apostolorumがサンナザーロ教会です。B. Salvatorisは今は無き救世主のバシリカとなります。また、B. Novaは、当時の大聖堂で今のドゥオモです。

400年頃のMediolanum(ミラノ)の地図

(1)サンタンブロージョ聖堂

サンタンブロージョ聖堂はミラノのシンボルともいえる教会で、379年に聖アンブロージョが、殉教者であるサン・ジェルヴァジオとサン・プロタジオの墓の上に建立しました。祭壇の下の地下納骨堂には聖アンブロージョとともにこの2人の殉教者の遺骨が納められています。祭壇右側奥の礼拝堂は4世紀に建てられたもので5世紀のモザイク画で飾られています。祭壇左側の女子修道院の内陣と回廊に続き聖堂宝物庫がありますのでぜひ見てください。そこには、まだ整理されていないローマ時代の遺物があります。

 

(2)サンナザーロ・マッジョーレ教会

この教会は382年に聖アンブロージョが十二使徒のために建設しました。ここには使徒達の遺品も保存されています。ギリシャ十字のデザインは東方の影響を受けたキリスト教殉教思想の典型です。5世紀からの記録及び考古学的遺品や芸術作品が数多く残っています。

 

(3)サンシンプリチャード聖堂

聖アンブロージョが聖処女(聖母マリア)に捧げるために4世紀後半に建設したロマネスク様式の教会です。度重なる改築で当時の面影は正面の扉にのみ残っています。また、地下には建立当初の礼拝堂の一部と遺跡が残されています。

 

(4)もう一つの古い教会

古い記録によると、聖アンブロージョの命によって建設された城壁外のバシリカは4つと言われています。最後の一つはBasilica San Dionigi“救世主の聖堂”と言われていて、今は現存していないことになっています。場所はミラノの北、市民公園の方向です。専門書や古い文献を調査すればもっとわかるのかもしれませんが、知識のない外国人にはとても解明できるとは思えません。

 

3.サン・ロレンツォ・マッジョーレ教会

サン・ロレンツォ・マッジョーレ教会は、聖アンブロージョが建立した4つの教会と同時期に建てられています。但し、聖アンブロージョとの関連はどんな文献にも言及されていないので別の創建者がいるものと想像できます。また、他の聖堂は全てロマネスク期及びその後のゴシック期に改築改修が施されていますがサン・ロレンツォ・マッジョーレ教会だけは初期キリスト教建築の壮麗な原型をとどめているのが他とは違う特異な点です。従って、大聖堂及び聖アンブロージョが建立した他の教会とは一線を画して扱われているようです。

 

それでは、誰が創建者なのか。それは、ミラノが主要都市であった時のローマ帝国の皇帝(テオドシウス一世)と言われています。キリストの三位一体及び聖人崇拝と聖遺物崇敬儀礼を正統としたアンブロージョは、神とキリストを同一視しないアリウス派を駆逐する等、その力は皇帝をもしのいでいました。その力を煙たく思っていた(8ヶ月間破門されたこともある)皇帝には別の礼拝堂が必要でした。即ち、サン・ロレンツォ・マッジョーレ教会は皇帝のための宮廷付属聖堂であり宮廷礼拝堂であったと言われています。サン・ロレンツォ・マッジョーレ教会正面のコリント式の柱列の周りでは、ミラノ市民が自分達と同じように教会へ入場する国王を見て歓声を上げて歓迎していたであろうことは想像に難くないと思います。

 

聖堂の右手には、聖アクイーノ礼拝堂へと続くローマ時代からの大きな長方形の入り口があります。そこの八角形の礼拝堂には聖ロレンツォと聖イッポリートの納骨所がありますが、実はローマ皇帝の霊廟との説もあります。

 

この教会の外見は、正面のコリント式の列柱とミラノ勅令を発行したコンスタンチヌス像に目が行きがちですが、裏の公園から見たらすばらしい形をしています。つぎはぎをした礼拝堂や鐘楼がきれいに調和していて、堂々たる教会を見ることが出来ます。

 

4.その後に建立された教会

上図の地図でもわかるように、城壁外にはキリスト教徒の墓が数多く存在していて、聖アンブロージョが建立した教会は、聖人の墓の上に建てられています。これらの4つの教会の建立後にも、4世紀後半から墓のそば(又は上)に徐々に教会が建立されています。以下に、上記の4つの教会の後に建立された教会の話をします。

 

サンテウストルジョ教会は、司教エウストルジョ二世により古いキリスト教墓地とエウストルジョ一世の遺骨を保存していた小教会跡に建てられました。伝説によれば、聖エウストルジョが聖書に登場する三賢者(三博士とも言う)の遺骨をミラノに持ち込み、その時に荷車がぬかるみにはまった城壁外のこの地に隠したというものです。三賢者はベツレヘムに幼児キリストを訪ね、贈り物を捧げた後、それぞれの国へ戻っていったとされています。しかしこれはあまり知られていないのですが、キリストが磔刑に処された後、賢者たちはまたベツレヘムに戻り、キリストの教えを広めようとしたため、殉死させられたと言われています。彼らの亡骸は一つの同じ墓に埋葬され、その聖骨は、キリスト教の聖遺物を収集していた東西統一のローマ皇帝コンスタンティヌス大王の母ヘレナによって捜し出され、4世紀初頭にコンスタンティノープルへと運ばれました。そして当時のミラノ総督エウストルジョが343年に司教に就任した際、皇帝コンスタンティヌスに謁見するためコンスタンティノープルを訪れたとき、大理石の石棺に入れられた三賢者の遺骨を受け取ったと言われています。こうしてエウストルジョは、石棺を乗せた重い荷車とともにたった一人で海を越え、山を越えてミラノまで戻りました。ところが、ミラノに到着したとき、聖バルナバの泉があった場所で重い荷車が泥の道にはまり込んでしまいました。エウストルジョはこれを神のお告げと解釈し、ミラノの城壁のすぐ外にあるその聖なる場所に三賢者のための聖堂を建設することにしたのです。これがサンテウストロジョ教会と言われています。12世紀初頭にミラノが神聖ローマ帝国のフリードリッヒ一世によって攻め落とされたときに聖堂は破壊されて、この聖骨はケルン大聖堂に移されたと言われています。

 

教会に向かって右手に、サンテウストルジョ教会の博物館とルネッサンス建築の最高峰といわれるポルティナーリ礼拝堂の入口があります。博物館には、歴史的な教会の絵画や聖遺物などが展示されていますが、その地下には、最近発掘された14世紀のお墓の跡が残っていて、この教会がお墓の上に建立されたことを証明しています。

 

サン・ヴィットーレ・カルポ教会の初期キリスト教聖堂はミラノでも最も古い建築物の一つで、サン・ヴィットーレとサン・サティーロの遺品を収容するために建てられました。7世紀後半に解体されたサン・マルティノ・コルプスの小礼拝堂の遺跡があります。

 

サン・ジョバンニ・イン・コンカ教会は、ローマ時代の古キリスト教会でありましたが、他の教会と同様にロマネスク期(11世紀)に改築されています。更に、ゴシック期(13世紀)に拡張してヴィスコンティ家の霊廟となり重要な教会となりました。近年に道路建設のために3つの身廊と鐘楼は撤去され、ヴィスコンティ家の霊廟はスフォルツェスコ城に移されてしまいました。この霊廟はスフォルツェスコ城博物館に入って直ぐのところに展示されているほどのすばらしいものです。また、ゴシック様式の正門はワルエンシアンという伝道教会に移設されたとのこと。従って、現在はドームの壁と地下の礼拝堂だけが残されて遺跡として保存されています。地下の礼拝堂は最近になって無料で一般に公開されています。

 

これらが、これまでに明らかになったローマ時代に建立されたミラノの教会です。ミラノは西方古キリスト教の中心地でもありました。そして、ローマ帝国のテオドシウス大帝の死後、紀元4世紀後半には西ローマ帝国の都となり、ヨーロッパの中心都市でした。

 

ミラノには、もちろん、これらの古い教会以外にも、ドゥオモのように、印象に残っている教会はたくさんあります。建設された年代に沿ってロマネスク、ゴシック、ルネッサンスと各建築様式が揃っています。また、建設後に改造、修復、増築が重ねられていて、それぞれに独特の特徴があり、良さがあり深みのあるものばかりとなっています。


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